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ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer )は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。. (中略 該当路線リスト)

都市鉄道は今後も当駅と西ベルリン間を連絡するが列車はプラットホームBの発着とする。, この命令書にはその他に地下鉄の閉鎖駅が列挙され、西側からの路線の通る東側の地下鉄駅は列車が停止しないことも明らかにしていた。そしてここには記されていなかったが、これ以降西へ乗車できるのは警察からの正式な証書を持つ人だけとなり、プラットホームAとBはやがて閉鎖された。この駅から西へ向かって運行が再開されたのは1989年になってからである[61]。この日に都市鉄道の8路線、地下鉄の4路線が交通不能となり、都市鉄道の48駅の全てで地区間交通が廃止され、東ベルリンの33駅のうち13駅が営業停止となった[62]。, 東ベルリンは大騒ぎで人が動きトラックが動き回り、空気ドリルが道路を堀削していた。警察本部は電話が鳴り響き、各地区警察には命令が飛び交った。午前5時30分にはポツダムに駐屯する工兵小隊が建設作業に駆り出された[63]。実際国境線近くの作業に駆り出された国境警察隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団などは事前には一切知らされず、深夜になってから命令が出されて、動員されているのがほとんどであった。, エーリッヒ・ホーネッカーはずっと境界沿いを車で走り細かい指示を出しながら作戦の進行状況を確認していた。午前4時頃にはほぼ作戦の重要な部分が達成されていることに満足して執務室に戻った。午前6時頃には全指揮官から任務は指示された通り実行されたとの報告を受けた。朝の6時までに東西ベルリン間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は午後1時までにほぼ建設が完了した。ホーネッカーはウルブリヒトに最終報告を済ませて帰宅した。, この夜のうちにまだ境界線が強化されていない地域から数百人の市民が西へ脱出した。湖水や運河を渡った者、友人である西ベルリン市民の車のトランクや座席の下に隠れた者、自分のナンバープレートを西の友人のプレートに替えて越境した者などで、難民脱出のハッチはこの夜に閉ざされた。1961年8月13日にマリーエンフェルデ難民収容所に来た者は150名だった。しかし実際の越境者の数は不明である[64]。, これで東西ベルリン間の48キロを含む西ベルリンを囲む環状155キロに渡る有刺鉄線が僅か一夜で完成した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。その境界線は東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があって通行可能であったが、その内69カ所がこの日に有刺鉄線によって封鎖され、12カ所に限定された[65]。, 東ドイツは建設当時、この壁を「近代的な西部国境」と呼び、「平和の包囲線」とも呼ばれていた。そして翌年8月に壁建設1周年記念行事を準備していた時に、この壁の正式名称の検討を始め、党政治局に設置された情宣委員会と中央委員会書記アルベルト・ノイデンが名称を「防疫線(コルドン・サニテル)」とする案がいったんは通ったが、再度検討することとなり、西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであるとして、「対ファシズム防壁 (Antifaschistischer Schutzwall) 」と呼ぶことに決定した[23]:124-125。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。, 午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、空港から飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭はさめていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている[15]:163。そしてブラントの目に映ったもう一つの冷たい現実があった。アメリカの冷静な態度であった。西ベルリン駐留のアメリカ軍は国防総省にも国務省にもホワイトハウスにも報告はしていた。しかし伝えられてきたのは「収拾がつかないような反応が起こらないようにせよ。」であった。休暇先からボンに戻ったモスクワ駐在西独大使のクロルは「西側諸国の受け身の態度に西ドイツの失望は大きかった。ベルリン市民は見捨てられたと感じていた。」と語っている。8月13日に、西ドイツも西ベルリンも連合国側の冷静さに驚かされていた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議しかなかった[15]:163-166。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった[23]:70。, 壁を作った東側への怒り、何の手も打たない西側諸国とりわけアメリカへの失望、さらに西ドイツ政府への幻滅、アデナウアーはベルリンに来ず、15日の選挙演説でブラントの過去を取り上げて個人攻撃をする始末であった。アデナウアー首相は西ドイツ首相として首都ボンに留まり、すぐにベルリンに赴くことはせず、過度に慎重な姿勢に終始した。それどころか、ボンに駐在するソ連大使スミルノフに会い、「西ドイツは状況を危険に曝すような如何なる手段も取らない」と述べ、またタカ派で有名であったシュトラウス国防相でさえ、国民に冷静さを呼び掛けていた[66]。, 8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラントは抗議の演説をした[15]:167。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした[67]。, ソ連は東ドイツ軍の後方の第三陣として布陣して、大量の軍事的動員を行うことで、アメリカ軍などの西側への強いメッセージを送った。アメリカ軍が介入してきた場合の代価がどれほどのものになるか、明確に伝えたのであった。東ドイツ駐留ソ連軍総司令官のイワン・コーネフ元帥は、若干の危惧を持っていた。東ドイツ軍及び警察部隊の忠誠がどこまで信用できるのか、西側諸国の軍隊が前進してきたら彼らはどう反応するのか不安を感じざるを得なかった。しかし西側の軍隊は動かなかった[68]。, そしてモスクワではフルシチョフが有頂天になっていた。米英仏を出し抜いたことで、最初は安堵しそれから歓喜の情に浸り込んでいった。東ドイツとの平和条約の締結によって得られると思っていたそれ以上のものを得たと感じていた。そしてフルシチョフはさらに突き進んだ。しばらく米ソ間で行っていなかった核実験の再開をアメリカよりも早く行った[69]。, アメリカなど西側諸国はベルリンをめぐる一連の出来事に対して最初から慎重な態度であった[2]:356。それはこの動きが全て東側の領土内でのことで、ケネディが7月25日の声明で示した3つの条件の侵害はなく、全て向こう側のことであったことがその理由だった。それはまた西側も望んでいたことでもあった。不思議なことに実はアデナウアーも同様だった。, 8月13日(日曜日)午前10時(ベルリン時間午後4時)にラスク国務長官とコーラー国務副長官が国務省に着いた。ラスクは「東ドイツとソ連が自国内でしたことだから戦争と平和の問題には直結しない。」と考え、「壁は彼らの防衛手段だ。また西ベルリンの位置とそこを包囲する軍事力の差を考えると自滅に追い込まれると予想され、道理に合わない。」と後に述べている。そして現地がソ連に対して抗議声明を出すことを禁じていた[70]:137-138。1945年7月7日に米英仏ソの4ヵ国で、ベルリンではお互いの部隊が制限を受けることなく行動できることを同意していた。ベルリン封鎖の後に1949年6月20日にも4ヵ国協定によって再度確認していた。従ってケネディは、この協定に基づいて東ドイツ部隊によって作られた壁を解体せよとアメリカ軍に命令する権利を持っていた。そもそもベルリンで東ドイツ軍が行動する権利はないのであった。しかし西側は動かなかった[71]。この日にハイアニスポートで休暇中だったケネディとラスクが電話で打合せして抗議声明の内容を決めたが、この4ヵ国協定を引き合いに出しているものの予想の範囲内でしかなかった。ラスクはその日の午後に大リーグの試合セネタース対ヤンキースを見に野球場に行った。アーサー・シュレンジャー補佐官はその後の著書の中で「東ドイツの出血を止めることで、壁はベルリンに対するソ連の最大の関心を鎮めた。」と述べている[15]:168。これはソ連勢力圏内の一現象に過ぎない、下手に介入するとか、脅迫じみた言動をすることは、危険すぎると考えていた。, 8月14日にハイアニスポートからワシントンに戻ったケネディは午前にモスクワから戻ったトンプソン大使と会い、午後にラスク国務長官と会談した。ベルリン駐在のライトナー公使から何度もメッセージが届き、西ベルリン市民の士気が急激に低下している旨の内容であった[72]。西ベルリンに居住する西側3ヵ国の軍関係者及び家族などの軍属並びに外交官などは従来通り東ベルリンへの通行は妨げられず、3カ所のチェックポイントを通って東ベルリンと往来は出来た。また西ドイツから西ベルリンへの陸路、そして空路もそのままで、西ベルリンに関する西側の権利を侵害することは無かった。, そして16日にブラントからの書簡を受け取ったケネディであったが、アデナウアー首相を飛び越えて一つの都市の市長からアメリカ大統領に書簡を送ったこと自体にケネディは怒っていた。しかし西ベルリンではアメリカが裏切ろうとしているという疑念が広まっているという報告を受けて、自分は一貫してクレムリンに立ち向かっていることをベルリン市民にも、ソ連人にも、そして国内のアメリカ人にも示すことが重要である認識に至り、何らかの行動に出ることを決意した[73]。, イギリスのマクミラン首相は趣味の狩猟に出かけてスコットランドに滞在し第一報が入ってもそこに留まった。マクミランには状況は改善したと見えていた。これでドイツの分断は固定化し、ベルリン問題は安定化し、ベルリン危機は緩和された。つまりすべて目的は達せられたと考えていた[23]:71。, 8月18日、ケネディはジョンソン副大統領とクレイ将軍[注 10]をボンに派遣し、副大統領と将軍はそこから翌19日に西ベルリンに飛び、西ベルリン市民は二人を熱狂的に迎えた。ジョンソンは市庁舎前の広場で「今日、新しい危機において、あなた方の勇気は自由を愛する全ての人々に希望をもたらします。」「この都市の存続と未来を、我々アメリカは我々の先祖が独立宣言で誓ったもの、それと同じく我々の生命、財産、神聖な名誉に懸けて誓うものです。」と述べた。この言葉は13日の国境封鎖以来、意気消沈していたベルリン市民を勇気づけ、涙する者もいた。そして西ドイツから陸路アウトバーンで東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊が西ベルリンに向かっていることもこの時にベルリン市民に伝えた[75]。, 8月20日にアメリカ陸軍第8歩兵師団(英語版)第1戦隊約1600人が西ベルリン駐留部隊を増強するため、ベルリン市民の歓呼の中で西ベルリンに到着した。この精鋭部隊を東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体がソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディは西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。そしてこの結果は西ベルリンへのアクセス権の確保が確かなものであることも裏付けられたが、西ベルリン市民にとってはアメリカが旗幟を鮮明にしたことだけで十分であった[76]。, 壁の建設は一気に行われたわけではなく、数度にわたって造り替えられた。特に初期の壁、ブロックを積み上げた文字通りの「壁」はベルリン中心部の一部にすぎず、郊外の田園地帯・牧草地帯・森林地帯・湖沼では、巻いた有刺鉄線の仕切りが二列に並べられただけのものであった。この二列は間隔が70m開いた部分もあれば、地形や住居の接近如何によってかなり狭まった部分もあった[77]。, 時代が下るにつれて壁はより頑丈になり、1976年に行われた改造(4度目の改造のため、"第四世代"と呼ばれた)によって壁の建設はほぼ完成した。最終段階の壁は高密度の鉄筋コンクリート製が二重に建てられており[16]:216-217、その2枚の壁の間は数十メートルの無人地帯となっており、東側から順番に、金網の柵(アラームつき)、道路(国境警備隊パトロールのため)、柵と道路の間に一定間隔の監視塔(東西ベルリン間48キロの区間だけで302カ所)、柔らかい土のベルト地帯(警備隊でも入れず常に均されて無数の照明に照らされている)、段差(車での突破を防ぐため)が仕掛けられていた。東ドイツ当局が監視の目を光らせており、壁を越えようとするものがいればすぐに分かるようになっていた[16]:216-217。, 壁の高さは3.6-4.2mで、一番上に大きな筒状の物を縦に割って被せてあり、乗り越えようとしても絶対に摑まる所が無く引っ掛ける所も無い状態であった。一番東側の壁から西側の壁までの距離は60mを超え、警備隊員と番犬以外は全く無人地帯で隠れることが出来ない恐ろしいほど殺伐として光景の一帯であった[16]:217-218[注 11]。また、1970年には仕掛けケーブルに触れると散弾を発射する対人地雷SM70(英語版)(自動発砲装置(ドイツ語版)と呼ばれ、クレイモア地雷と原理において同じ)も設けられたものの[78]、被害者に大きな苦痛を与えると非難されたため1984年に撤去された。, 最終的に壁の総延長は155km[注 12]、無人地帯の総面積は49,000m2から55,000m2に及び、ほぼ1つの町の総面積に等しいものであった[77]。壁は東側からは幅100mの無人地帯のため立ち入ることができなかったが、西側からは接近することができたため、壁の西側では壁の建設を非難し撤去を求める政治的な落書きが出現するようになった。やがてさまざまなメッセージや色鮮やかなストリートアートが壁の西側を彩った。, 1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相は年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げた。事前に相談を受けなかったウルブリヒト東独第一書記はこのソ連の方針返還に不満であり、抗議の意思をこめて東ベルリンでの境界線での入国審査の厳格化という実力行使に訴えた。西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求めるようになったが、この対応は4ヵ国協定に違反しており、ソ連からもマリノフスキー国防相名で、東ドイツはソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない、と通達を出していた[79]。, 10月22日、アラン・ライトナー米国公使夫妻がチェックポイント・チャーリーを通過しようとしたときに身分証明書の提示を要求された。ライトナー公使はこれを拒否し、警備隊と押し問答の末に強引に検問所を突破して往来の自由を主張するなどした。その後、クレイ将軍は本国のラスク国務長官の許可の下、チェックポイント・チャーリーでの外交官の示威行動を行い、米軍兵士の護衛付きで外交官が検問所を突破するなどした[80]。警備隊は当初は特段強行に阻止するなどはしていなかったが、10月27日、示威行動を行った米国側が引き返そうとしたところ、突如としてソ連軍が戦車を検問所前まで進めた。米軍も待機していた戦車を出動させ、両軍は検問所を挟んでにらみ合った[81]。, クレイ大将は実力行使辞さずの構えだったが、ケネディは西側諸国間でのベルリン問題の意見の相違の調整で苦しんでいた時期であり、一検問所でのトラブルを大きくする余裕はなかった[82]。一方フルシチョフは、壁の建設の時点でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信おり、報告を聞いても「戦争なんて起こる訳はない」と考えていた[83]。ケネディとフルシチョフは極秘で連絡をとり、一触即発の状態は20時間ほどで解消された[84]。米軍側を主導したクレイ大将はその後本国に呼び戻された[85]。またフルシチョフも米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した[86]。, この事態は「(ベルリン危機(英語版))」と呼ばれ、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた[87]。, この事件以降、壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たすことになった。実際にケネディも「(壁は)非常によい解決法というわけではない、が、戦争になるよりはずっとましだ」[88]と、壁の存在について容認する発言をしていた。, ベルリン駐在の米国外交官リチャード・スマイサーは後に「壁は東ドイツを強化ないし救済するためのもので、チェックポイント・チャーリーでの事件はある意味でゲームだった。クレイは戦車隊が到着してすぐにそれを察知し、様子を見ることにしょう、と言った。実際戦車が対峙していても緊迫した空気は無かったし、双方とも発砲する気は無かった。この事件で第三次世界大戦を始めようとは思っていなかったし、ロシアもそのつもりは無かった。」と語っている[70]:281-283。, ヘンリー・キッシンジャーはその著書「外交」の中で、このベルリン問題について、「フルシチョフが東ドイツとの平和条約を断念し、ベルリンの壁の成功が個別の平和条約を不要にしたと宣言したことで、ベルリン危機は終わった。」と述べた。そして「危機を通じて序盤に鮮やかな動きを見せた後に、相手が進退窮まって投了するのを待つチェスの棋士のように振る舞った。しかし外交記録を読むと、交渉で数多の選択肢が示されて論じられ暗示されているのにそれを少しも利用しなかったことは理解しがたいことだ。」「結局フルシチョフは自分が何度も最終期限を設定しながら何もせず、西側同盟国を交渉に巻き込ませた数々の選択肢についても何もしなかった。3年間の最後通牒と血も凍る脅迫(1958年の自由都市宣言と1961年ウイーン会談におけるケネディへの最後通牒)の後でフルシチョフの成功はベルリンの壁を作ったことだが、これは結局、ソ連のベルリン政策の失敗を象徴するものとなった。」「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。」としてベルリン危機は翌年秋に起こったキューバ危機とともに冷戦の転換点となったと述べている[22]:208-210。この壁建設は結局1958年の最後通牒から大きく後退し、西側に対決するものでなく、東ドイツ人の利益に対立するものであった。そしてこの時は西側は知らなかったが、東側陣営での中ソ対立で中国との関係が悪化していたことが一定程度西側への態度を軟化させていた、とも見られている[89]:199。, この1年後の1962年10月に、キューバにソ連が密かに核ミサイル基地を建設しようとしていたことを発見した米国はキューバを海上封鎖してソ連にミサイル基地撤去を迫り、核戦争の一歩手前まで行ったがうまく回避しソ連のミサイル基地撤去を勝ち取った。, 1963年6月26日にケネディ大統領は西ベルリンを訪問した。ベルリンの壁建設時は苦境に立たされたケネディであったが、翌年10月のキューバ危機では、トルコからのミサイル引き揚げと取り引きする形でキューバへの核兵器配備を阻止し、6月10日にアメリカン大学での「平和のための戦略」演説でソ連との直接交渉を始めたばかりであった。この時期には西ベルリン市民のケネディへの人気は高まっていた。, この日、アデナウアー首相とブラント市長とともに100万人の市民の歓呼に答え、ベルリンの壁近くの市庁舎前広場で30万人のベルリン市民を前に演説した。ベルリンの壁が築かれてまだ西ドイツも西ベルリンも複雑な状況ではあったが、この頃になると次第に状況は安定に向かっていた。演説においてケネディは、ここで有名なフレーズを述べた。, この言葉はアメリカの西ベルリンに対する決意の強さを表すものとしてソ連に対する強いメッセージとなった。それは西ベルリンを守ったという自負と、貧しい東から豊かな西へ逃亡しないようにしたのがこの壁であることの勝利の表明であった[74]:166。壁建設の時点では見せなかった憤激を露わに共産主義を非難し、そしてこの時にケネディは大統領就任後に初めて、「これはドイツ人が戦後18年の行動を通じて勝ち得た権利であり、私はベルリンが、ドイツ国民が、そしてヨーロッパ大陸がいつの日か統一されるであろうことを確信するものである。」と、ドイツ再統一の権利について述べた。ケネディはこの演説でドイツとベルリンに関する米国の政策を新しい決意のもとに変えて、ベルリンを守るべき場所とし、以後米国はベルリンで引き下がることは無かった[92]。, この演説は多くのベルリン市民やドイツ国民の心に残ることとなった[注 15]。この広場で行った演説は彼の政治活動のなかで最も成功したものだった[93]:231[注 16]。, 西ドイツのブラント首相の東方外交で、西ドイツとソ連、西ドイツとポーランド、そして東西ドイツの間で関係改善が進むと、ベルリン問題についても恒久的であれ暫定的であれ平和的に処理しようとする動きが1970年に入ってから活発になった。そして1971年9月3日に米英仏ソの4ヵ国協定が締結され、更に東西ドイツ間で細部の取り決めを合意し、翌1972年6月3日に発効した。この協定には東西ベルリンの地位は曖昧で、東ベルリンは「隣接する地域」と表現されてベルリン全体の問題には触れていないが、ソ連は東ベルリンに大使館を置きながら西ベルリンにも領事館を置き、暗黙のうちに西ベルリンが自己の勢力範囲であることを断念し、また西側3ヵ国軍の西ベルリンへの駐留、西ベルリンへの通行を認めた。一方西側は西ドイツと西ベルリンとが政治的には別の存在であることを認め、かつ東ベルリンを東ドイツの首都であることも認めた。これで戦後の東西ベルリンの間で未解決であった西ベルリンでの西側各国の駐留権、西ベルリンへの通行権が保障された[95]。, さらに1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれて、相互に対等な主権と領土を認め[注 17]、翌1973年に東西ドイツは同時に国連加盟を果たした。, 東西ドイツの間で1961年から1988年までに総計23万5000人が「共和国逃亡」によって西ドイツに逃れた。そのうち4万人が国境の見張りをすり抜けて越境した者で、更にその中の約5000人余りがベルリンの壁を乗り越えた者であるが、その大部分はまだ壁の国境管理が甘かった1964年までの数字である[23]:104。東ドイツ側の国境超えの「逃亡未遂」に関する刑事訴訟の手続きは1958年から1960年までで約2万1300件、1961年から1965年までで約4万5400件であった。そして1979年から1988年までの「逃亡未遂」の有罪判決は約1万8000件であった[23]:105。これはベルリン以外の東西ドイツ国境での逃亡未遂も含めての数であり、ベルリンの壁を超えようとした未遂及びその準備をした者はおよそ6万人以上とみられ、有罪判決受けて、平均4年の禁固刑であった。そして逃亡幇助の計画準備の場合は実行者より重く終身懲役刑を科されることもあった。, 東から西への亡命は、壁建設が始まっていない地点からいち早く抜け出した例、検問所の設備が整う前に強行突破した例、国境警備隊の監視網をかいくぐって奇跡的に亡命を果たした例、果たせず逮捕された例、射殺された例など、様々なエピソードを産んだ。特に壁の設備がある程度完成した1964年までの間に、脱走の試みは集中した[96]。, エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している[23]:37。, クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている[109]。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った[110]。, 1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて[23]:111、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」[注 22]、「200人以上」[112]:145、「射殺されたは238名」[113]:364、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」[114]:260、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」[16]:215、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」[89]:490などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。, 東西間の通行が遮断されて、越境が危険を伴うことから、1963年頃から西への逃亡援助が営利事業と化し「逃亡援助を生業とする連中」が牛耳るようになって、西ドイツ側の態度も変わったと言われる。そしてその後に東西ドイツ政府間で裏取引が1964年頃から制度化され、東ドイツ政府の『人道的措置』によって東の刑務所に拘置された政治犯を西ドイツに送ることが可能となった[注 23]。, その人数は1963年から1989年までに男女33,755人に上り、また家族結合の名目で約25万人以上とされている。西ドイツはその見返りに約35億ドイツマルクを支払った[115]。1人について、その人物の教育水準・刑期の長さ・重要度に応じてまちまちの代金が交渉で決められて[23]:117-118、40,000ドイツマルクから95,847ドイツマルクになったと言われる[115]。これは見方を変えれば『人身売買』であり、東ドイツにとっては好ましくない市民や反体制分子を追放できて、しかも同時に利益を得るうま味のある『特別ビジネス』であった[23]:118-119[注 24]。, 1964年11月に東ドイツ政府は年金受給者に対し、訪問あるいは滞在のために西側へ行くことを許可した[117]。これで満65歳になって東ドイツ政府に移民申請をすれば、無条件で西ドイツに移住できた。これは当時の東ドイツにおける年金支給開始年齢であり、たとえ移住であれ65歳以上の人口が減れば年金を払う必要がないため政府は歳出をそれだけ削れ、お金だけかかる人間を厄介払いできるという東ドイツにとって実に都合のいい理由が背景にあった。他にもアルコール中毒患者や精神病患者も厄介払いとして東ドイツは簡単に西へ送っていた[16]:206。1961年から1988年までに383,181人が西側へ行き、その大半が年金受給者であった[117][注 25]。, 壁建設直後は、射殺や溺死などの犠牲者が相次ぎ、壁付近は緊張に包まれて、西ベルリン市民の抗議や反発は収まらず、西側市民の東側への通行は不可能であった。しかしようやく沈静化に向かった1963年12月に7回に及ぶ予備会談の末、東ドイツとベルリン市との間で「ベルリン通行証協定」[注 26]が締結されて、1963年12月19日から1964年1月4日までの17日間、一時的に西側市民が東側を訪れることが可能となった[118]。これは東側に親戚がいることが証明された家族のみの限定で、クリスマスを東側の親戚とともに過ごすためのものであった。この制度を利用した西側市民は73万人以上で、西ベルリン市民の半数に近い延べ120万人が東ベルリンに入ったという[119]。この協定は翌1964年も結ばれて、1964年10月30日から11月12日まで、12月19日から1965年1月3日まで、そして復活祭から聖霊降臨祭までのそれぞれ14日間であった[118]。, やがて1967年になって通行証協定が改められて規則が緩和された[120]。しかし東側に入るときにはビザとパスポートを持ち、西側の印刷物の持ち込みは不可であった。また東ドイツ政府にとって外貨獲得の一環として機能しており、西ドイツ市民は有無を言わさず西ドイツマルクを収奪させられていた。まず越境時に東西マルクを1対1で交換させられ、東独滞在時に使いきれなかった東独マルクは西独に戻るときに再両替されずに没収されることになっていた(建前では東独の銀行に預け次の訪問時に引き出せるが、その際の引き出しの手続きがややこしくて、事実上の没収状態であった)。東独は物価が安く、更にモノの供給量が少ないので両替分を使いきれないことが多く、多くの場合において没収された。さらに東ベルリンの他の街を訪問する場合にも、どの街に入る時にも強制両替を行い、ここでも残った金額を没収していた。しかも最初の越境時から交換額を記した紙片の携帯が義務づけられており、最後に残金を没収されるときに東側で買ったもの全てを書類に書き入れなくてはならなかった。この申請に不備があると後で面倒なことになった[16]:203-205。, 一方で東側市民が西へ行くことは容易に認められず、親の葬儀への参列については認められることがあったが申請が通るかはまちまちで、後には誕生日のお祝い訪問も40歳・50歳・60歳の区切りで許可されたが、これも許可が下りない場合もある恣意的な運用であった[121]。その後も、親戚訪問、ビジネス、東側団体主催の催し物への参加などだけを認め、外国人には認められた市内見物やオペラ観劇は西独市民には認めなかった。そして1年間で合計30日以内という制限があった[16]:205。, 1985年にソビエト連邦共産党書記長にゴルバチョフが就任し、それまでの閉塞状況であったソ連にペレストロイカ(改革)を推し進めて、この動きはやがて東ヨーロッパ諸国、とりわけ80年代初めから国内で連帯運動が起こったポーランドとハンガリーに波及し、1988年にポーランドでは非共産党政権が誕生し、ハンガリーでも社会主義労働者党の改革派が政権を担った。これが1989年になると、他の東ヨーロッパ諸国にも大きな影響を及ぼした。, 1989年5月2日、既に民主化を進めていたハンガリーのネーメト首相が、オーストリアとの国境にある鉄のカーテンと呼ばれる国境の鉄条網を撤去すると、ハンガリー経由での国外出国に希望を持った東ドイツ国民が夏期休暇の名目でハンガリーを訪ね、そこに滞留する事態となった。, 8月19日、汎ヨーロッパ・ピクニックが欧州議員オットー・フォン・ハプスブルクの主催でこれにハンガリー政府の改革派の後援により、ハンガリーとオーストリアの国境付近のショプロンで開催された。これは、秘密裡にハンガリーが東ドイツ市民をオーストリアに越境させることを企図したイベントであった。そしてこの集会のさなかに東ドイツ市民661人がオーストリアへの越境に成功した。その後もオーストリア経由で出国が出来ると考えた東ドイツ市民がオーストリアと国境を接するハンガリーとチェコ・スロバキアに殺到した。8月25日、ハンガリーのネーメト首相は密かに西ドイツを訪れてコール首相と会談し、東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させる決断をしたことを明らかにした。やがて西ドイツ側の受け入れ準備が整った9月11日にはハンガリー政府は正式に東ドイツとの協定を破棄して東ドイツ市民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた[122]:82。9月30日には、チェコスロバキアのプラハの西ドイツ大使館に集まっていた東ドイツ市民4000人の前に西ドイツのゲンシャー外相が現れて西ドイツへの出国が可能となったことを伝え、月末までに約3万人が出国した。, もはやベルリンの壁は有名無実化しつつあり、東ドイツ国内でもデモ活動が活発化していた。, こうした国民の大量出国やライプツィヒの月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたにもかかわらず、最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー社会主義統一党書記長は改革には背を向け続けていた。10月7日の東ドイツ建国40周年記念式典のために東ベルリンを訪問したミハイル・ゴルバチョフがその際行われたドイツ社会主義統一党幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカについて演説をしたのに対し[122]:8、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて党幹部達を見渡すと、舌打ちをし[122]:9、ゴルバチョフが改革を行おうとしないホーネッカーを否定したことが他の党幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツ(政治局員・治安問題担当書記・国家評議会副議長)やギュンター・シャボフスキー(政治局員・社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記)ら党幹部達はホーネッカーの退陣工作に乗り出した[122]:15。10月17日、政治局会議でシュトフ首相が提議したホーネッカーの書記長解任動議が可決し、ホーネッカーは失脚し、後継者となったのはクレンツであった。, 1989年11月9日、この日エゴン・クレンツ率いる社会主義統一党中央委員会総会で翌日から施行予定の出国規制を緩和するための新しい政令案を決定した。その日の夕方、クレンツ政権の広報担当者シャボフスキーは、この規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表し、いつから発効するのかという記者の質問に「私の認識では『ただちに、遅滞なく』です」と答えてしまった。シャボフスキーは、中央委員会の討議には出席しておらず、クレンツからも細かい説明もなく、また中央委員会で攻撃に曝されていたことで、クレンツ政権内部が混乱したことがその原因とされる(ベルリンの壁崩壊)。, この記者会見を各国メディア及び東ドイツ国営テレビ局などが報道し、同日夜には東ベルリン市民が東西ベルリン間の7カ所の国境検問所に殺到した。旅行自由化の政令は実際は査証発給要件を大幅に緩和する法律であり越境にはあくまで査証が必要であったが、殺到した市民への対応に困った国境検問所の国境警備隊の現場指揮官は、政府からの指示もなく、11月9日午後10時45分に止む無く国境ゲートを開放した。査証の確認なども実行されず、ベルリンの壁はこの時に崩壊した。, 11月10日に日付が変わると、どこからともなく持ち出された重機などでベルリンの壁は破壊された。のちに東ドイツによって壁はほぼすべてが撤去された。ただし歴史的な意味のある建造物のため、一部は記念碑として残されている。, ベルリンの壁崩壊により東西両ドイツの国境は事実上なくなり、翌1990年10月3日、東西ドイツは統一した。, ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一、更に冷戦の終結にいたりベルリンの壁は名実ともにその存在意義を失った。その一方で、ベルリンの壁は米ソ冷戦の象徴的遺跡としての保存の声が高まりシュプレー川沿いの約1.3kmの壁(イースト・サイド・ギャラリー(ドイツ語版))は残された。この部分には「ベルリンの壁建設」にインスピレーションを得た24の国の芸術家118人による壁画が描かれた部分であり、その中には「ホーネッカーとブレジネフの熱いキス」を描いた戯画も含まれている。, 文化財として保存が決まったものの、経年による劣化と観光客の落書きとその場しのぎの上塗りによる補修で保存は危機的状況に陥った。2000年には寄付によって壁の北側は修復され、2008年に残りの補修には250万ユーロの寄付が必要と試算された。2009年には残る部分の修復に着手している。, その他、ベルリン中央部のニーダーキルヒナー通り(ドイツ語版)沿いの一帯(ゲシュタポ本部や国家保安本部があったあたり)には、再統一後に「テロのトポグラフィー(ドイツ語版)」という博物館が建てられ、この部分に沿って建っていたベルリンの壁も残されている。さらに記念品としてライン川畔のコブレンツに白い壁を2枚移設し、また日本には宮古島市上野のうえのドイツ文化村に2枚移設している。この時に地下を含む構造が明らかになり、地下のL字型の下のコンクリートが東ベルリン側が数倍長いのは、地下から(=塀の下を掘り返して)の逃亡を防ぐためだったと見られている。, ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一が実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊の翌年1990年には国境警備兵に対する裁判手続きが進められていった。東ドイツの狙撃兵は東ドイツの国内法では訴追は出来ないため、道義的概念は持ち込めるのか、事後に成立した法に基づく訴追は遡及効禁止と齟齬を及ぼすのか、法が正義に反する場合は実定法に対して正義と道義が優先されるのか、射殺命令を執行した狙撃兵と射殺命令を出した上官との罪の上下は…などドイツ国内で様々な議論がなされた。この後にドイツの裁判所はベルリンの壁の死者と射殺命令に関する審理にほぼ15年を費やした[23]:227-230。, ドイツ連邦議会は1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁の歴史と帰結の批判的総括」を行うための調査委員会を設置した。そして2年後に社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余りの調査報告書を公表し、この中で東ドイツで行われた国家犯罪や人権侵害など負の遺産についての真相究明、責任や罪の承認、浄化や和解、補償と賠償、そして裁判などが述べられていた。これらには独裁の犠牲者を悼み、犯行者を処罰することも含まれていた[23]:227-229。, かつてナチス時代の暴力犯罪に対して、法が正義に反する場合に実定法よりも正義と道義性が優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争は再燃した[23]:231。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設の9日後に社会主義統一党政治局が発砲命令を出したと言われるが[23]:31、それが明確な文書としては残っておらず、当時のブラント西ベルリン市長が東ドイツの国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時に、ウルブリヒト第一書記は「国境を侵す者には、武器を用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた[23]:31-32。, その射殺命令およびその実行に関して、東ドイツの最高指導者と政権幹部、国境警備隊幹部、現場の兵士に対して、1990年10月からドイツ再統一後のドイツ連邦共和国の裁判所で裁判が行われ、裁判所は社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任の連鎖が存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部は市民の生命を保護し身体無傷性を守る義務を負っていたとして「民主共和国市民の人格と人権は不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法と国際人権協定をその字義どおりに解釈した[23]:233。, このドイツ民主共和国の不正を理由として始められた捜査手続きの総数は壁の射殺事件以外も含めて約10万件に達すると見られ、この総数に対しての有罪判決はおよそ133分の1の数であった。この内に両独国境での強行犯罪については総計244件の訴追があり、466人が告発されて385人に判決が下され、110人が無罪で、275人の有罪が確定した[23]:234。刑の量定は連隊司令官、国境警備隊長、政治局員まで地位に順じて重くなった。しかし大半の被告は執行猶予付の判決で、命令権者の20人は執行猶予の付かない自由刑の有罪判決であった。これらの不正行為と見なしたものの捜査と裁判が最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年が過ぎた2005年であった[23]:233。, 壁で越境しようとした市民を射殺したと訴追された警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張がなされることもあったが、多くは射殺命令を実行したと認定された。しかしその兵士に対して、最終的には、執行猶予付きの有罪判決の場合がほとんどであった[123]。「殺意なき殺人」として処理されている[123]。また1997年のエゴン・クレンツの裁判で、裁判官は「国境警備隊は国境の安全に責任を負っていた。警備兵に下された射殺命令は実際にはイデオロギー上のものであった」と裁定している[124]。, 1961年8月24日に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィンの事件では、彼を撃った兵士は1997年に裁判で禁固18カ月の有罪判決であったが執行猶予がついた。「やや軽度の重大事犯」にあたる故殺と見なされた[23]:33。, 1962年8月17日に壁を越えようとして撃たれ、東側に落下してからしばらく虫の息だが生きていたものの東西両側から救助されず、1時間後にその場で失血死したペーター・フェヒターの事件では、1997年3月に元国境警備兵2人が殺人罪で訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月、それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実は容認しがたいと明言した。ペーターの父は傷心で精神を病み1968年に亡くなり、母も精神を病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた。後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた[125]。, 1989年2月6日にベルリンの壁で最後に射殺されたクリス・ギュフロイの事件では、1991年9月に国境警備兵4名が告発され、法廷で命令遵守を訴えたが人道に対する罪で、致命傷を与えた銃弾を放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役の判決が下りるものの、1994年に減刑されて2年の保護観察となった。同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年に執行猶予が付いた。当初東ドイツはこの壁で死者が出た事実を否定する方針であったが世界中から非難されて認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子を殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるだけだったという。この裁判では結局発砲を命じた側は罪に問われなかった[126]。, なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府は新聞に家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者で許可されたケースはそれまで無かった)、葬儀が2月23日に行われ約120人が参列した。それまで葬儀どころか遺体を家族に引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケースが多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族が知ったことが多かった。また一緒に越境しようとして国境警備隊に逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判で懲役3年を言い渡されたが、西ドイツが身代金を支払い、彼の身柄を引き取った[127]。, 東ベルリンと西ドイツ間の長距離列車は時刻表通り運行するが、当駅ではプラットホームAの発着とする。, このベルリンの壁は共産主義の失敗を最も如実に示している。(中略)自由世界と共産世界の差異が分からないという者が多数いる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)共産主義は未来の波であるという人もいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)欧州でも他の地域でも共産主義者と協力できるという人がいる。彼らはベルリンに来てみるがいい。(中略)共産主義は悪い制度だが経済的進歩をもたらすという人も少数はいる。Lass'sie nach Berlin Kommen(彼らはベルリンに来てみるがいい)。, 厳密には、ドイツ帝国、ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツを通じて正式国名は一貫して「, NATO(北大西洋条約機構)の基になった条約で、前年1948年3月にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んで相互防衛の行動を約束し、このブリュッセル条約締結国に加えて、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・ノルウエーの各国が相互防衛を規定した条約である。1952年にギリシャとトルコ、1955年には西ドイツが加わった, ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。, キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果で米国の安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した, 彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。, ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。, なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような, ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた, よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった, 「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている, その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った, 国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照, 壁崩壊後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。, 上述の通り、米英仏ソ4か国の軍隊は壁を越えて市内全域のパトロールを認められており、米軍はこの権利を誇示する目的で1日おきに昼間と夜間に4-5台が東ベルリンをパトロールしていた。このパトロールは、規定によりボンネットに国旗を立てていたため、「, 2009年8月にドイツ政府の委託で壁記念センターと現代史研究センターとが4年がかりで壁の死者について調査した結果を発表した。その発表では、1961年から1989年までにベルリンの壁を乗り越えようとして死亡した者は少なくとも136名に達したとしている, 【西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車に, 【他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。】という言説は滑稽な話である。そもそも社会主義国に富裕層は存在せず、党幹部でも簡単に外国へは行けない国であった。国内の旅行さえ不自由な国で外国人との結婚が容易である訳はなく、また結婚できても国外への旅行は申請しても簡単には許可がおりず、壁が東の人間を閉じ込めていたことを少しも理解していない話である。, 正式には「ドイツ民主共和国政府及びベルリン参事会間の議定書」と呼ばれ、東西ドイツ間の協定ではない。東側が従来から西ベルリンは西ドイツと別個の政治単位であると主張していたためである。このため西ドイツ政府(アデナウアー政権)はこの通行証協定は東側の主張を認めるものであるとの懸念を隠せなかったが、ブラント市長は人道的措置であることを強調した。実際には、交渉の当事者である西ベルリン市から協定交渉の妥結をボンの西ドイツ政府に伝え、西ドイツ政府が閣議で了承した後にブラント市長宛てに通告してから協定を結ぶものであった, 平成元年(1989)ベルリンの壁崩壊|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB, wall berlin germany 1961 1989 nc-berlin wall berlin germany 1961 1989, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ベルリンの壁&oldid=79933104, ベルリン市内の境界を含むドイツ民主共和国の国境に西側諸国の国境に存在するものと同程度の管理を実行する。, 第三の包囲線はソ連軍で構成されており、東ドイツ軍が総崩れになった場合は進出することになっていた。, 同じくベルナウ通りの住人フリーダ・シュルツ(77歳)は、窓の下の地面消防隊が敷いた毛布に飛び降りようとしたが、部屋に踏み込んできた警官に両手を掴まれた。外で受け止めようと待ち構えていた西側の市民が彼女の足首を掴んで二人がかりで引っ張り返し、身柄を警官からもぎ離した。この場面は丁度この現場を通りがかったアメリカ特使団のヘムシング広報官が目撃して「非常に感動的な光景だった」と後に述べ、またこの場面を撮影していたフィルムはニュース映画に使われて有名な話となった, 1961年暮れに8両編成の列車の運転士が計画して、もう1人が線路のポイントスイッチを切り替えて、東側から西側につづく線路に進入して有刺鉄線を引き倒してすぐ西側の野原に停車した。この時に男性8人、女性10人、子供7人がそのまま西へ逃れ、事情を知らない他の乗客は東へ戻った, 1962年9月14日から15日にかけて29人がおよそ135メートルの地下トンネルを通って西ベルリンへ亡命。, 1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。連絡員の間では同年の東京オリンピックにかけて「トーキョー作戦」と呼ばれた。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、, 戦後の東ドイツの最高指導者。1971年に引退。ベルリンの壁の構築の提唱者であり、実行者であり、そして最高責任者であった。壁建設後に武器の使用を躊躇わず、射殺命令を出したと言われている。壁崩壊時は既に死去していたので、訴追はされなかった。, 壁建設の陣頭指揮に当たり、壁を越境しようとする者に対して射殺命令を出したとされて、統一後に49件の殺人罪によって起訴されたが、, 1999年に懲役6年半の判決を受けた。党幹部としての責任(治安問題担当書記を兼務していた)を問われたが、ベルリンの壁犠牲者には遺憾の意を表している。シュパンダウ刑務所で1999年から2003年まで4年間の収監であり、昼間は刑務所外で働くことができるという半自由刑の扱いとなった。ただし、有罪判決が出た後にヨーロッパ裁判所に抗告し、その際にベルリンの壁の死者は東ドイツ政府の責任ではなく冷戦の犠牲者であると主張した。, 壁の建設と同時に、西ベルリン市民のおよそ1万人が、東側の別荘や畑へ行くことが不可能となった。彼らはその土地の所有者であり、, 2009年に行われた世論調査によると、旧西ドイツ出身者が旧東ドイツ復興のため税金が上がったことに、旧東ドイツ出身者たちは旧西ドイツとの所得格差に不満を持ち、7人に1人はベルリンの壁の復活を望んでいるという結果が出た.
壁の建設は社会主義の世界的評判にとって打撃であることを彼は十分認識していたが、一方で東から西へ大量の人口流出に対策を早急に打たなければ東ドイツ経済が完全に崩壊するのは目に見えていたためである。人口流出を防ぐためには空路の遮断か壁の建設の二つだが、前者は米国との武力衝突を招きかねなかったのである[29]。, ウィーン会談の決裂をきっかけとして、フルシチョフは壁の建設とベルリンの交通遮断を認めた。しかし、会談で通告した東ドイツとの平和条約締結は10月に撤回している。東ドイツへの影響力を保持するには現状のままでベルリン問題へのソ連の主導権を確保することが得策であることに気づいたからであった。やがて米ソ両国の主導権を握る地域を明確に分けて、お互いが干渉しない暗黙の了解が成立し、ベルリンの壁を建設し通行を遮断したことで、ベルリン問題はその後に固定化し、逆に状況は安定化に向かうことになる。, 6月15日にウルブリヒトは西側記者との会見に臨んだ。この時点ではまだ壁建設の了解をソ連から取り付けていなかったが、ウィーン会談の結果を聞いてウルブリヒトは壁建設に進めると確信していた。そしてこの日の記者会見で、東ドイツはブランデンブルク門の脇に国境を設けるのかという質問に対して「そうした壁建設の計画があるとは承知していない。我が国の建設労働者は住宅建設に忙しく、誰も壁の建設など考えていない。」と答えた。国境のことを聞かれて思わず壁について答えてしまったのである。しかし記者たちはそのことに気づかず、その後の展開を誰も予測していなかった[23]:61-62。, 翌月に壁の建設の了解をソ連から得たことで、ウルブリヒトは向後にソ連と平和条約を結び、ソ連の後押しで西ベルリンの「解放」に進めると考えた。, ウィーン会談でフルシチョフのベルリン問題についての言及に苦しめられたケネディ大統領は、その後ベルリンに差し迫った状況が訪れようとしていることを予感していた。アチソン外交顧問(トルーマン政権での国務長官)は、最も強硬な対応策を主張し、核戦争も辞さずとして国家非常事態宣言と戦時のような動員をかけるよう文書で大統領に提出した。しかしアーサー・シュレジンジャー特別補佐官は、この年の4月に行ったキューバのカストロ政権の転覆工作が準備段階で政治問題を過小評価して、軍事的及び作戦的な諸問題に注意を集中しすぎた結果失敗したピッグス湾事件の過ちを喚起して、2人のスタッフ(エイブラム・チェイズとヘンリー・キッシンジャー)とともに、別の案を作成した。この間は政権内部で強硬派と柔軟派との議論が沸騰していた[30][31]。, シュレジンジャー特別補佐官にとってアチソン案は、この危機を引返せないところまで押しやるリスクを含んでいることを危惧していた。それがピッグス湾事件の教訓であった。7月7日にケネディに自身の案を文書で提出した。アチソンの意見は最後の手段を検討しているが、危機が深まるまで交渉はせず、同盟国との協調もなく、軍事行動は述べてもその政治的目的は述べておらず、核戦争に踏み切る大義名分を練り上げることが不可欠であると書き入れた。それはアチソンの影響力を削ぐためであった[32][注 7]。, 7月8日にハイアニスポートのヨット「マーリン号」の中で、ケネディ・ラスク・マクナマラとテーラー軍事顧問が話し合った際には、ケネディは国務長官に声を荒らげて国務省の緩慢な対応に激怒していた。ケネディはこの時に国防長官にベルリンで衝突した場合の核を使用しない抗戦方法についての計画案の提出を命じ、核戦争への突入を避けるためにフルシチョフと語り合う時間を与える練り上げられたものでなければならないと述べた。このハイアニスポートのヨットでの会議から7月25日の大統領声明までの17日間の間に、アチソンの強硬な提案が少しずつ削ぎ落されていった[34]。, この後に7月13日と19日に国家安全保障会議が開かれた。とりわけ19日の会議ではアチソンとマクナマラとの間で意見の応酬が交わされて、結局アチソン案は見送られた。そして25日にケネディはテレビ演説を行った。, 「西ベルリンはコミュニストの海に浮かぶ自由の小島です。西ベルリンは鉄のカーテンの裏側の希望への灯です。(略)我々は西ベルリンの自由な人々を、我々の権利を、彼らの安全を維持しなければなりません。」と決意を表明して、国家非常事態の宣言ではなく、32億4700万ドルの国防費追加要請、陸軍兵力を87万5000人から100万人に増員、海・空軍の実践部隊の増員、そのための徴兵を3倍に増やし予備兵力を招集[35]し、ワルシャワ条約機構諸国に対する経済制裁を課すことを述べて、年内までに対ベルリンへの空輸能力を高め、ヨーロッパへの配備に6個師団を追加することも発表した[36]。, この演説において、ケネディは「西ベルリン」、「ベルリン」という語句を区別して使用していた。「西ベルリン」という単語を17回使用した。ベルリンの西部に手を付けない限り、ベルリンの東部は構わない、というメッセージに読めるものであった。この演説の前日に演説草稿文を読んだCIA高官ジェームズ・オドネルは、西ベルリンの安全保障ばかり繰り返しているとしてスピーチライターのセオドア・ソレンセンに文句を言っていた。ベルリンは理論上は4ヵ国の管理下にあるのだが、ケネディはソ連に東ベルリンでのフリーハンドを与えると伝えているようなものであった(この微妙なニュアンスについて、当時のマスメディアは全く気が付かなかった)[37]。, これより前に6月のウィーン会談で、アメリカ側の政府高官は首脳2人の会議録を読んで驚いていた。アイゼンハワー大統領まではヨーロッパが東西に分裂している現実についてのコメントは控えていたが、ケネディ大統領は分割されている現実を積極的に受け入れて、分割を受容可能で永続的なものと認め、しかも「世界に生起し勢力均衡に影響を与える変化は、米ソ両国が威信をかけた条約上の誓約に関わりの無い形で起こることが決定的に重要である。」とフルシチョフに語っていた。これはワルシャワ条約機構加盟国など東側に属する国にはアメリカの干渉はあり得ないことを示唆していることになるのである[38]。, そして8月初め、ケネディは冷静にフルシチョフの言葉を振り返って、ウオルト・ロストウ補佐官に語っていた。「フルシチョフは東ドイツを失いかけている。東ドイツを失えば東欧全体を失うことになる。だから難民流出を止めるために何か手を打つだろう。たぶん壁を築くことになるだろう。我々はそれを阻止できない。だが西ベルリンを守ることは出来る。しかし東ベルリンを塞がせないために行動することは出来ない。」[39]。, ケネディはフルシチョフがウィーン会談で突き付けた最後通牒を拒否し、西ベルリンについて、西側軍隊の駐留、自由な通行、自由な政治状況の保持の3点を要求したが、これは米国の関心が西ベルリンの現状維持に限られることを示すシグナルに他ならなかった[7]:96。, 1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた[26]。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日(土曜日)から13日(日曜日)にかけての夜間に実行することで決まった[40]。, と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜ米国の軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ」と答えた[26]。実は、この時にフルシチョフは6月3-4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた[41]。, ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記エーリッヒ・ホーネッカーであった。, この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった[42]。8月4日、東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った[43]。その後も流出者総数は8日に1741人、9日に1926人、10日に1709人、11日に1532人に上った。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たず、1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている[44]。, 8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった[45]。, 8月11日、東ドイツ人民議会は「ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する」とした決議を採択する[46]。この時点では議員もその具体的内容は伝えられておらず、壁の建設を知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員や国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、その内容は予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた[47]。, 東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後の東ドイツ首相)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した[48][注 8]。, 8月12日は土曜日でいつもの休日であった。西ベルリン市長ウィリー・ブラントは社会民主党(SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるのでその選挙遊説でバイエルン州ニュールンベルクに出かけ、アデナウアー連邦共和国首相は同じようにリューベックに遊説に出ていた。マリーエンフェルデ難民収容所はこの日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった[49]。そして夜になってブラント市長は遊説先のニュールンベルクから夜行列車でキールに向かった[50]。オリンピックスタジアムに近い将校専用クラブではこの夜にダンスパーティーが開かれ西側外交団や軍関係者が参加していた[51]。, 午後4時に政治局会議が開かれて、ウルブリヒト第一書記から説明があり、討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名しホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。東ドイツ保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である」「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい」と語った。閣僚たちはこの時初めて壁の建設の計画を知った[52]。, 数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリンのパンコウ地区の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に東ドイツから数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の妨害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、有刺鉄線を張るためである。東側は、三重の包囲線を敷いていた[53]。, 13日午前1時、東ドイツ警察隊本部は二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警察隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者のオフィスにワルシャワ条約機構加盟諸国の「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」旨の声明が届き、急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められて「境界は閉鎖されました」と伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した[54]。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で、最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶフリードリッヒ通り駅では西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった[55]。その時に西側3ヵ国の兵はまだ寝入ったままであった。, イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話しそして至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジは、この作戦にそれほど驚かなかった。「絶対に何かあるとは感じていたが誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えていた[56]。, 西ベルリン駐在の米国公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受ける。部下のスマイサーとトリンカが指示を受けて偵察に出向き、車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回りブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことでアメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」「東の経済的損失と社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いがかなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた[57]。, ほぼ午前2時すぎから各地区に配置した労働者階級戦闘団から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した[58]。午前4時、ブラント市長の乗った列車はキールに向かっていたが途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎハノーファーで降りてタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされて状況を知らされた[注 9]。ブラント市長が急ぎ西ベルリンに向かったのに対しアデナウアー首相は西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスのドゴール大統領はパリ南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇でやはり就寝中にクーヴ・ド・ミュルヴィル外相から電話で事態を知らされた。ドゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる[59]。, この頃にアメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続けフリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。駅構内には12日付で党中央委員会からの命令書が張り出されていた[60]。, ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。
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