ニュース速報まとめ梅 JAPAN CLASS 第10弾 ]。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある[213]。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという[214]。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された[190]。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった[215]。, また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが[216]、機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり[要出典]、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である[要出典]。, 14時、注排水指揮所との連絡が途絶し舵操舵室が浸水で全滅した[217]。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった[218]。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた[219]。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった[220]。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた[221]。, 大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった[222]。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した[223]。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した[224]。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する[225]。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した[226]。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある[227]。, この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している[228]。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した[229]。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた[230]。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。, このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機[231]による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である[232]。, 『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない[233]。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。, 最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた[238]。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った[239]。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った[240]。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが[241]、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた[242]。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた[243]。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した[244]。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた[245]。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた[246]。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる[要出典]。, 14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している[247]。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた[248]。左舷の高角砲も半場海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た[70]。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた[70]。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する[249]。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある[250]。, 大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分[252]、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している[253]。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった[70]。, 所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた[254]。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた[255]。, 14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した[256]。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた[257][258]。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された[259]。, 頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた[260][261]。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している[262]。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した[263]。, 冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた[264]。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた[265][266]。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった[267]。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した[268][269]。, 大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名[270]または276名[271]、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった[272]。, うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)[要出典]。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている[273]。, 4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった[274]。, 大和沈没の報は、親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという[275]。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている[276]。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された[1]。, 4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた[277]。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した[278]。, 12月9日、GHQはNHKラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した[279]。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている[279]。, 大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、遙か鹿児島でも確認できたという。また、徳之島から見えたという伝承がある[280]。, 爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる[要出典]。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが[281]、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である[要出典]。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている[282]。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している[283]。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが[284]、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある[285]。, 同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた[286]、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど[287]、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である[288]。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある[289]。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった[290]。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている[291]。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は[292]「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている[293]。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした[294]。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある[295]。, アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという[296]。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった[要出典]。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない[要出典]。, さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想[297]。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本[298]。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発[299]。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発[299]。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張[300]。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている[299]。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた[301]。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した[302]。, 呉市の旧海軍墓地(長迫公園)に「戦艦大和戦死者之碑」がある。大和が建造された旧呉海軍工廠(現在はジャパン マリンユナイテッド)のドックを望む歴史の見える丘にも艦橋の高さの1/10の記念碑が設立された。徳之島にも戦艦大和慰霊塔が建立されている(塔の高さは艦橋の高さと同じ)。建造されたドックは埋め立てられているが、機密保持のために設けられた屋根はそのまま残されている。修繕に使用された北側のドックは、2017年現在も稼働中である。, 戦闘詳報による大和の沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分 / 北緯30.367度 東経128.067度 / 30.367; 128.067[303]。だが実際の大和は、北緯30度43分 東経128度04分 / 北緯30.717度 東経128.067度 / 30.717; 128.067、長崎県の男女群島女島南方176km、鹿児島県の宇治群島宇治向島西方144km、水深345mの地点に沈んでいる[304]。, 戦後4回の海底探査が行われている。1982年の探査で最初に大和と思われる船体が発見された。様々な資料を検討して沈没点を推定し、広範囲の海底スキャンが行われた。その結果、通常見られる海底の起伏地形とは異なる反応を得た。引き続き無人探査機を降ろして海底の探査を行ったが、沈船らしき映像が写ったものの途中から天候が悪化したためにその船体が大和かどうか確認できないまま調査を終了している。また、海底の物体の全長が大和と比較して明らかに短いことも指摘されていた。, 1985年(昭和60年)、戦後40年目の節目ということもあり、大和の発見を目指して「海の墓標委員会」が組織され有人海底探査船が同年7月29日より開始された。探査には大和会や遺族会、民間企業の出資で行われた。探査船はイギリスから空輸された3人乗りの「パイセスII」が使用された。7月29日より調査が開始され7月30日には大和の巨大な艦尾とスクリューが確認された。7月31日に主砲弾や艦首部分の菊の紋章が発見され、その直径を測定することで沈没船が大和であると確定された。同日中に艦橋や艦の前半部分も発見されたが、船体が大きく2分割されていることや主砲塔がすべて脱落していることも判明した。この探査ではパイセスIIが把持できる範囲の重量の遺品が海底から収集され回収された。, 1999年(平成11年)にも潜水調査が行われ、海底に散乱した部品の地図が作成された。それを元に海底の様子を再現した模型が作成され、大和ミュージアムで展示された。2009年(平成21年)1月になって大和の母港であった呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)・呉商工会議所・中国新聞・日本放送協会広島放送局等、広島の経済界やマスコミが中心となって寄付を募って引き揚げる計画を立ち上げ、数十億円規模の募金を基に船体の一部の引揚げを目指したが、その後話が立ち消えとなった。, 2016年5月、呉市の依頼で深田サルベージ建設が「はくよう」を投入して調査が行われた[305][306]。総費用8000万円のうち、呉市が6400万円を拠出した[305]。5月10日に調査船は鹿児島を出港し、5月11日より洋上での記念式典の後に調査が開始された[305]。「はくよう」は無人探査機で、ハイビジョンカメラが使用された。調査には大和ミュージアムの学芸員も同席した[305]。この調査では遺品の回収は行われなかった[305]。50時間の映像と7000枚の写真が撮影され、そのデータを元に海底の大和の9分間の3D動画が作成された[306]。動画は大和ミュージアムの企画展示として公開されている[306]。, 大和の艦体は1番主砲基部と2番主砲基部の間を境に、前後2つに分かれている[307]。艦首部より2番主砲塔前(0 - 110番フレーム付近、約90m)までは[283]、右に傾いて北西(方位310度)に向いて沈んでいる[307]。艦中央部から艦尾まで後部(175 - 246番フレーム付近、約186m)は、転覆した状態で東(方位90度)方向を向いている[283][307]。双方をあわせると全長276mとなる。後部も大きく破損しており、破断状態に近いために「大和の船体は3つに分断されている」とする出典もある[308]。その他に、激しく損傷した中央部分と思われるブロックが3つの起伏となり艦尾艦首の70m南に沈んでいる[307]。, 大和の艦首部分は右に傾いて沈んでいる。1番主砲塔は脱落しているが、バーベットは無傷で保たれており1999年や2016年の調査でも潜水艇がバーベットの穴の内部の撮影を行っている。1番主砲塔直後より船体は切断されており2番主砲塔のバーベットは残っていない。艦首部分の右側側面は激しく損傷しており、ほぼ右舷側が吹き飛ばされて存在しない状態となっている。大きく右側に傾斜して海底に沈んでいるので、1番主砲塔横の最上甲板がそのまま海底に繋がっている。バルバスバウは確認できるが、直後で船体に大きな亀裂があり艦首部分は座屈して半壊した状態となっている。菊の紋章は残っているが、以前の探査で確認された金箔が2016年の探査では剥離して失われていた[308]。船首部分の先端は崩壊しており周囲は大きく形を崩しており、過去数度の海底探索で鋼板の劣化により艦首部分の崩壊が次第に進行していることが確認されている[308]。艦橋は船体から脱落して艦首バルバスバウ近くの右舷の下敷きとなっている[308]。艦橋の上に右舷が覆いかぶさっている状態で、15m測距儀や射撃指揮所が遠方から観察できるが、細かい観察は出来ない。, 転覆した状態で、ほぼ海底に水平に沈んでいる。4本のスクリューのうち、3本は船体に無傷で付いているが右舷外側の1本は脱落して海底に突き刺さっている[309]。沈没時の爆発でスクリューシャフトが折れて、脱落したものと思われる。主舵および副舵には損傷はなく、共に正中の位置となっている。艦尾部分のブロックの左舷側の艦底-左舷にかけては艦の正中を超える非常に大きな破壊孔があり、この孔のためにそれより前側と後側では正中線がずれており破断状態に近い[308]。孔の中には艦内を走行するスクリューシャフトが観察されている。また缶(ボイラー)なども発見されている。後部艦橋も船体から脱落して船尾部分の横、海底に突き刺さったスクリューの傍に沈んでいる。, 大和の主砲と副砲はすべて転覆時に脱落した[308]。3基の主砲塔は、海底の同一線上に沈んでいる[310]。これは主砲の脱落が、転覆直後に起こったことを意味しているとされたが、2016年の探査で、沈んでいる順番は北から順に第2主砲(船尾部分の北側)、第3主砲(船尾部分の北側に接する)、第1主砲(船尾部分の南側)ということが判り、艦に設置されていた状態と位置が交差している。9本の砲身はいずれも泥に埋まるなどして確認できていない[308][311]。主砲塔のうち最も保存状態が良いのは1番主砲塔である。1番主砲塔は上下逆になって海底に塔のように直立しており、上部および下部給弾室なども破壊されていない状態で綺麗に観察できる。一番下になっている砲塔本体の装甲も少なくとも側面の装甲はそのまま残っており、測距儀もカバーごと砲塔についたままである[308]。2番主砲塔は大きく損傷しており、給弾室は斜めに傾斜している。沈没時に2番砲塔の弾薬庫が爆発したことを示す証拠とされている[312]。測距儀は残っているがカバーが外れて本体が剥きだしになっている。3番主砲塔は片側半分が海底に埋まっている。副砲のうち1基は3本の砲身が確認されているが、中央の砲身の先端が破裂している。もう1基の副砲は砲身が海底に埋まっていて確認できない。, 座標: 北緯30度43分17秒 東経128度04分00秒 / 北緯30.72139度 東経128.06667度 / 30.72139; 128.06667, 1.
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